アレフ教学システム 問題D
第7章 17話
※(1)〜(25)に適切な言葉を入れてください。
次に人間が悩まなければならない問題点は、もともとこの粗雑な肉体というものは(1)ぬものであると。従って、この肉体を有する人間関係のすべては、(1)を前提に生きているわけだから、(2)、つまり離れることを原則としているわけだから、(3)が強ければ強いほど(4)は生じるんだという理解のもとに、その(3)の捨断に努める生き方を行なうのか、あるいはそうではなく、それも何となく頭の中でわかってはいるのだけども、その(3)から離れることができず苦しまなければならないのか、の二つの選択肢の中の(2)(3)を選ぶプロセス。一般的に、この四番目の段階において(5)が存在する。
そして、まだこの(2)愛着の問題を解決するということは、(6)のプロセスであり、そしてまた仙道のプロセスであるということができる。この(6)のプロセス、あるいは仙道のプロセス等の修行に入って、そして外的な魔に対して、あるいは内側の魔に対して全く頓着せず阿羅漢へと至る。
ではインド仏教においてはどうかというと、これも皆さんもよくご存じのとおり、例えばナーローパの二十以上の(7)、あるいはミラレーパの、同じように二十以上の(7)等を見てもわかるとおり、心が寂静へ到達してから、わたしたちが(8)のボーディサットヴァとして、そして真理勝者と同じような神秘的な力を現わす段階へ至るためには、それだけの(7)を経験する必要がある。しかも、この(7)は(9)をかけた(7)であるということができる。
なぜわたしが今日このような話をしているのかというと、わたしたちが今の自分の(10)を捨てしっかりと最終地点へ到達するぞと決意し、そしてその最終地点へ至ろうと自覚するとするならば、確実にその道は見え現われるのである。
しかし、わたしたちがわたしたちの今まで積み上げた(11)イコールプラーナ、これに対して慢が生じた段階で、「いや俺はもうすごいんだ」、「俺はいろんなことができるんだ」、「俺は大きなことを動かしているぞ」、等々の意識が生じた段階で、わたしたちの次の修行ステップというものは全く見えなくなるのである。
従って、修行の原則というのは、淡々と行なう(12)を第一とし、また今の自分のステージに対して「まだまだである」と、「次の段階があるんだ」と考える(13)、これを基本とすると説くのは、もしそれらの心の持ち方によって修行しないとするならば、わたしたちの目の前から真理というものは、あるいは次のステップというものは、全く見えなくなることを表わしているのである。
もともとわたしたちの(14)の数というものは七万二千本存在する。この七万二千本の(14)が、最終的には三本になり、そして体全体を気が覆うようになる。この気が覆うようになるとは何かというと、七万二千本すべてに(15)が満ちるがゆえに、その(15)の流れが小さな道ではなく、エネルギーの塊として体全体を、その中心を(16)するようになるのである。
そして最終的には、この肉体の形を対象に認識させるとき、その(15)の働きによっていろいろな形に認識させ得るような状況が生じる。
つまり、わたしたちがこの現実に完全にどっぷり漬かり、そして押し流されてしまうのではなく、現実に立脚し、そして(17)は(17)として認識し、今生きている環境を(18)の場と変えてしまうと。
では、どのようにして(18)の場と変えるのかと。それは(19)によって(18)の場と変えることが原則となる。
では、基本的には何から始めればいいのかと。これは、四つの記憶修習述、および、人間として生きていることそのものが衆生を済度するための実践であると考える、つまり(20)の実践。
この二つを土台として、もし皆さんが生きることができるならば、皆さんは人間として生まれた(21)というものを、普通の人に比べて十万倍、百万倍、一億倍、あるいはそれ以上の(21)として生きることができるはずである。
つまり、人間としての形状を持ちながら真理を実践している魂、あるいは他の仏教徒でも、本当に(22)・サマディ・智慧を有する教団の、この三つの中の第一番目の(22)というものは、より一層厳しい制約を有することになる。
では、それはなぜであろうかと考えると、大変よく理解できるということができる。つまり、わたしたちの、例えば身体に七万二千本のナーディーが存在すると。七万二千本のナーディーの中の、最終的には(23)気道へとプラーナを導き入れたいと。
そしてこの七万二千本のナーディーは、それぞれの(24)によってプラーナが動いていると。とするならば、(23)管にプラーナを入れるためには、これとこれとこれとこれとこれとこれとこれとこれのプラーナの流れを(25)する必要があると。――プラーナの(25)というのは、まさに意識において枠組みを設けることとなると。
そして(23)管にプラーナが流れ込むことだけを肯定するとするならば、それは(22)によって制御するしか方法がないわけである。このような形で、規制、つまり(22)というものが存在する。