アレフ教学システム 問題D
第7章 16話
※(1)〜(25)に適切な言葉を入れてください。
(1)が弟子に対して接する場合、三つの段階がある。この三つの段階とは、(1)と弟子の(2)の深さを表わしている。
第一番目は(3)、あるいは多聞の段階である。この段階で(1)は弟子に対して、多くの法則を説き明かす。しかし、これはあくまでも学、あるいは(4)の段階であって、その本当の意味での悟りというものは、弟子には当然訪れない。
第二番目の段階、これは(5)に触る段階である。この(5)に触る段階とは、要するに称賛し、そして、弟子の(6)を見ないようにしながら修行を進めると。
なぜならば、もし、(1)の目から弟子の状態を見るならば、それは、九九・九九パーセント以上の確率で(6)にしか見えないからである。従って、〇・〇〇一パーセント以下の称賛に値する内容を称賛すると。これが第二段階の(5)に触る段階である。
そして、第三段階の、第三段階目、これは(7)の弟子といわれてる段階である。
これはちょうど、ティローパがナーローパになしたような段階、つまり相手のステージが(8)されていて、学・(4)、これが完全に(8)され、そして、自分自身のけがれを完全に相手が認識してる状態、それでいて、三宝に対する、(1)に対する帰依が(8)してる段階。――この段階では、ライオンの親が子に対する段階といわれる段階がある。
じゃ、なぜ懺悔をする必要があるんだと。
それは、絶えず「これが自分である」という見解からとらわれないことであると。「これが(9)である」ととらわれた瞬間に、それは既に謬見解を生み出すことになる。
では、なぜだと。「これは(9)だ」という実体がこの世の中に存在すると思うか、君たちはどうだ。しかし、「これが(9)である」、「(9)の感情はこうなのよ」、「(9)の意識はこうなのよ」と思いたがる。どうだそれは。そしてそれにとらわれた瞬間、そこから記憶修習がスタートする、どうだ。
だから、第一番目になさなきゃならないこと、それは「これは(9)である、これが(9)の見解である」という、この点から(10)されなきゃなんない。そのためには絶えず懺悔の心を持ち続けなきゃならないと。では何に対して懺悔の心を持ち続けるんだと。それは(11)であると。そして、(11)の具現化した形であるグルに対して、絶えず懺悔の念を持ち続けなきゃなんないと。
では、(12)はどのようにしたら達成できるのかと。これはまさに、(13)であると。
では(13)には何があるんだと。これは多くのテクニックがオウムにはあるよね。例えば(14)マントラを唱える、例えば立位礼拝を行なう、例えば(15)如意足を唱える等のだ。
つまり、これらの三つの土台、これは三つの土台だよ、つまり、懺悔、それから(16)、それから(12)に至るための(15)・(13)を行なうと。三宝に対する絶対的(14)を崩さないための(15)・(13)を行なうと。これらの三つができて初めて、正見解からの、ね、正しい思索が展開されると。
じゃあ、この正(17)と正思惟の違いは何だと。つまりおかしいじゃないかと。この、正しく学んだ段階で、既に正(17)じゃないのかと。そうじゃないよね。
正(17)というのは、正学によって学んだもの、ねえ、これを土台として、グルの(18)をもう一度聴くと。そして、それによって正しい(17)を身に付けると。
じゃあ、正思惟とは何かと。その正しい(17)を身に付けた状態で、自分自身の煩悩について、苦しみについて、しっかりと(19)すると。これは正思惟だよね。
そして、思索した段階で「どのような(20)が自己に対して(21)」であり、「どのような(20)が他に対して(21)」であるかをしっかりと検討し、記憶修習し、発するように訓練すると。
つまり、この段階で「(22)の(20)を身に付けなさい」と言ってるわけだ。この(20)で「真理勝者の(20)を身に付けなさい」と言ってるわけだ。これが正語であると。
そこで当然、その各段階における、静慮、瞑想ね、そして(23)が生じてくると。このディヤーナ、(23)という二つによって、わたしたちは、この三界について、それから五蘊について、つぶさに経験できると。これが(24)であると。
そして、(24)することにより、これは無常であり、苦であり、そして我が本体にはあらずと。わたしの本体ではないことが理解できると。それによって独存位、つまり(25)の独存位が形成されるのである。