アレフ教学システム 問題D
第7章 10話
※(1)〜(25)に適切な言葉を入れてください。
そして、ポイントは何かというと「(1)」であると。(1)とは何かというと、いかなる(2)、例えば内的(2)、外的(2)があったとしても、それに対して動じない、(3)の心を培うための一つの修行なんだという意識があるかどうかと。それを、もし(3)心を(4)ための修行であると考え、(5)で行なうならば(6)は出ようと。ところが、もしそれを、ね、修行であると考えないで、ただ単に目の前の(7)をこなしてるんだと、単に流されていれば、当然(6)は出てこないと。
つまり、大切なことは、いかに自己の心を(8)かと。いかに自己の心を強くするかが大切である。そして、自己の心を完璧に強くした者、これを(9)というんだね。
その罵倒される状態と、それから電話で罵倒される状態と、果たしてどちらの方が(10)だろうかと。もちろん、わたしは、ね、(11)してるから、ね、君たちは(11)してないから、その違いはあるじゃないかと。ま、それはそうだと。しかし、言い方を換えるならば、今の修行そのものは(12)を強くする(13)の修行なわけだから、そういう修行を、ねえ、本当に全力で(14)的に行なえることに(15)を感じなきゃならないと。…(中略)…
そのすべてが、その人の(16)条件、(16)、ね、状態をつくり上げていくための修行であることに変わりはないんだということだ。そして、この考え方は(17)であり、カルマ・ヨーガでもあると。
ところがね、わたしは近ごろ思うんだよ。富士に来て感じること、それは(18)の心がないなと。(18)の心とは何かというと、たくさん(19)を積んで、たくさん(19)を積まさせていただいてね、(19)を積むというよりも、積まさせていただくという心がないんじゃないかと。少しの暇があれば(20)して、そして、ね、できるだけ高い(21)に上がって、より多くの人に(22)を結ぶと。果たして、この中でどの程度の人がそれを意識してるかといったら、(23)に近いんじゃないかと。
ただ、一般社会と同じように淡々とワークをこなしてると。「少しでも功(19)を積むぞ」と、「少しでも積極的に(18)するぞ」と、ね。そしてもう一方の修行、「少しでも懺悔をし、(24)するぞ」と。これをなしていることが、わたしの(25)としての役割じゃないかとわたしは考えるんだけど、どうだ。