アレフ教学システム 問題D
第6章 19話
※(1)〜(25)に適切な言葉を入れてください。
まずわたしたちは、四つの念処のプロセス、あるいは、五蘊のプロセスで、意識まで(1)し、そして、供養値魂へと至るわけである。となると、まず第一の段階で何が生じるのかと。それは当然、身におけるとらわれがなくなり、そしてムーラダーラにある、(2)の上昇が生じなければならない。これはどうかな?
そうすると当然その上昇に伴って、わたしたちは、(3)が生じるはずである。これどうだ。つまり、身の(1)の結果として、(3)という結果が出てくるはずである。そうだね。
第二の段階では、プラーナが、スシュムナー、イダー、ピンガラーという三つの気道を通り、アージュニァー・チァクラへ抜けていくわけだが、このときにフラッシュの体験をするよね。どうだ。そしてその、アージュニァーからも抜けなくなったプラーナは、ブラフマランドラへと入り、ね、そして、(4)が起きると。そして、(5)の没入が起きるという第二段階が生じる。だろ?
そして第三段階は、完全に中央管が、その(4)によって、あるいは(5)の道によって(1)されるから、その段階でわたしたちの化身は、頭上から抜け出すことになる。そうだね。
そして、第四段階は、完全にサハスラーラ・チァクラが解放された状態に至ると、わたしたちの意識は、(6)へと没入すると。
この四つの段階が通過し終わると、(7)へと到達する。(7)の意識状態は先程述べたとおり、コーザルに属してるから、意識は(8)していると。もちろんこの人が、意図的にアストラルのけがれや、現象界のけがれを喜び、喜貪したとするならば、そこから(9)するだろうが、もし喜貪しなければ、(8)した意識の状態が経験できるはずである。
ここで(8)した意識の状態というのは、別の表現を使うならば、例えば、コーザル世界のビビッドな、リアリティーの意識の状態。アストラル世界の、雑念とも思われるような、一分から二分ぐらいの、思念の(8)の意識の状態。そして現象界の、自分が考えてる「これが(10)である」という意識と。このような形で、(10)たちは(9)するのである。
つまり、最上善逝とは「これ以上の世界へ(11)することのできない魂」と。「最高の世界へ(11)することのできる魂」ということになるよね、どうだ。
そのためには、必要なことは、まず、智慧によって(12)の構成をしっかりと理解するだけではなく、すべての法則の原因と条件と結果と、それを理解しなきゃなんないと。そうだね。
それからもう一つは、その智慧によって、一般的に悪業と見えるものを(13)に変えたり、あるいは、一般的に(13)に見えるもので悪業であるものに対しては近寄らなかったりするわけだ。そうだね。
これをなすことによってその人は、善に満ちあふれ、徳に満ちあふれ、そして心は(14)の境地にとどまり、――(14)の境地にとどまるということは、徳を減らさないと。その上に最高の法則の実践を行なうわけだから、どうだ君たち、これ以上の魂は存在すると思うか? しないよね。
では、この(15)を完全に理解した者という意味合いと、最上正覚とは同じではないかという疑問が出てくるかもしれない。ここで、(16)へ到達すると、最上正覚者と違い、一つ一つの(15)について完全に経験・吟味・熟考、これを繰り返すことができるのである。…(中略)…
そうではなく、「この(17)を実践することによって、この(15)へと至りますよ」と、ね。「この(15)から脱却するためには、この(17)が必要ですよ」と。「この(15)は、これくらいの長きにわたり生存するが、それ以上生存しませんよ」と。そのように詳しく一つ一つの(15)を理解できる状態、これが(16)の状態であると。
よって、この魂は(18)、これ以上の人は(19)しない、という状態へと到達するのである、ね。これはこの人間界の表記だけではなく、この魂が天界へ行ったならば、天界での(18)になり、あるいは形状界へ行ったら、形状界の(18)となり、非形状界へ行ったら、非形状界の(18)となる。いいね。
この段階でわたしたちは、いかなる世界のいかなる魂に対しても、完全な法則によって(20)することができるようになる。しかし、もちろんそれは、因・条件という二つのものが必要となる。
真理勝者であられたサキャ神賢も「(21)なき衆生は度し難し」、つまり、(21)なき衆生は救済できないんだと言ってらっしゃる。ここで“(21)なき衆生”というのは、例えば、会話のできない、あるいは会話したとしても、こちらの言うことを理解できないような相手は(20)できないと。しかし、それ以外の(21)ある衆生に対して法則を説き明かし、その衆生を必ず高い世界へと至らしめると。その条件を整えたと。そして、救済者としての条件を完全に整えた状態、これが七番目の丈夫(20)者なのである。
そしてわたしたちは、九番目に、(22)へと至ると。
この(22)といわれる段階、この段階は、一般でいう仏陀という言葉とは同義と考えない方がよろしい。なぜなら今までは、北伝系、あるいは、特に、まあチベット仏教においてもそうだが、この仏陀を独覚と同義語的なとらえ方をしているから、ここでいう仏陀は、(22)は、その段階ではなく、“(23)の存在はあるが、個としては最高の法則を内側に内在し、しかも法則を完全に理解し、説き明かし、多くの衆生を済度できることの、済度することのできる魂である”という認識をすべきである。
では、(24)とどう違うんだと。(24)との違いは、一言で言うならば、一発目に、つまり、まず第一に(25)をし、救済した人であるかどうかの違いであると。