アレフ教学システム 問題D
第6章 17話

※(1)〜(25)に適切な言葉を入れてください。

 まず、わたしたちは(1)によって輪廻を繰り返しています。つまり「わたしたちが生まれてきている理由はなぜだ。何のために生まれてきてるんだ?」という質問に対しては、それはわたしたちが(1)があるからであると答えるのが、最も仏教的答えになるといえるでしょう。
 その(1)を(2)させてるうちに、その(1)は止めどなく、どれだけ(2)させたとしても、それを最終的に満喫することは(3)である、という結論に達する魂が存在するようになります。この魂は、その(2)できない原因はどこにあるのかと。そして、(2)できないがゆえに生じる(4)はなぜだ、ということの追究を始めるようになります。
 この追究が進んでくると、まず現実の世界、つまりわたしたちが目で見、耳で聞き、鼻で嗅ぎ、口で味わい、そして触覚で感じる、あるいは意識によってそれを感じる、このようなものは(5)を原則としていると。つまり、絶対に固定されないという認識に立ちます。固定されないがゆえに、そこから(4)が生じるのであると。


 では第三のカテゴリーは何だと。それは、仏教的言葉を使うならば(6)、つまり、イメージの世界であると。これは実際問題として夢を見たり、あるいはフィーリングとして何となく感じる、といったようなものがこの第三番目のカテゴリーに属することになります。
 では、第四番目のカテゴリー、それは何だと。それは、わたしたちの経験の蓄積であると。つまりわたしたちは、瞬間瞬間に言葉・行為、そして心の働きの三つを積み上げ続けているわけです。そして、それは(7)として蓄積されます。これが第四番目のカテゴリーであると。


 そして、外側の世界で満足できないわたしたちの本質は、この(8)の物理的身体・(9)・イメージ・経験の蓄積・識別によっても満足できないことを知ります。それは、結局外側の無常、(10)するものを蓄え続けた結果生じている(8)だから、当然(8)の要素も(10)し続けているからです。そして、これらの五つの要素を取り払ってしまう作業こそが仏教的な解脱・悟りだということがいえるでしょう。
 では、それを取り払ったら何が残るんだろうと。それはわたしたちの本質的な我である、アッタ、これはサンスクリット語では(11)といわれている真我がそこに存在するのです。この真我は、この世界つまり物質的な世界や、あるいは形状のみによって存在している世界、あるいは心のみによって存在してる世界、これを(12)したときに初めて、わたしたちに現われ出る本質的には空、本質的には光の身体です。そしてその身体は、すべての要素をその(8)に内在しています。


 ところで、これらに到達するためには、何をどのように行なうのかというと、まず第一番目に、わたしたちの身体に対する(13)を徹底的に行なわなきゃなりません。このアプローチの仕方は仏教的方法とヨーガ的方法とでは異なります。
 仏教的方法は正観、つまり正しい(13)を基本の瞑想課題とします。ヨーガ的方法は(14)の昇華、つまり(14)を上に上げること、および(14)を強めることに本質的な修行の課題を持っていきます。


 第二番目は、いろいろな神秘的なものが存在する、しないという(15)を払うための修行に入ります。このときの修行課題は、現実の価値よりも瞑想によって得る価値の方が崇高である、ということを悟るための修行に入るわけです。
 そして、この二つが捨断できた段階で、第三番目、この日本ではよく餓鬼道といわれていますが、(16)の霊域の捨断へと入っていくわけです。ここでわたしたちは、(16)の霊域に入るための過去においてなしてきた誓いや戒律の懺悔を行ない、それによってピュリファイされた意識状態で次の段階へ至るわけです。
 そして、第四番目は性的な興奮の捨断、これを行ないます。この性的興奮の捨断を通り越すと、いよいよ低い神々の世界への意識へと入っていきます。
 この低い神々の意識の第一番目は(17)、つまり自分と同等の者、自分より上の者を蹴落とそうとする心を捨断する修行に入っていくわけです。


 そして、この慢を捨断したのち、次の段階でわたしたちは(18)の捨断へと至ります。ここで“(18)”とは、仏教的言葉を使うならば、掉挙、あるいは(19)といわれているものです。
 (18)の、つまりエネルギー次元が高くなった場合、わたしたちは掉挙といわれる心の(20)さ、つまり(18)してるがゆえに(20)な要素を経験します。逆にエネルギー次元が低くなった場合、ま、例えば何かの失敗によって(19)した場合、わたしたちのエネルギー次元は下がり、沈滞した意識状態を経験します。これらの(18)や沈滞、これを捨断することは、先程の慢と同じように、淡々と目の前のあることに対して(21)を尽くす修行にとって妨げとなるから、そのように行ないます。


 そして最終的には、仏教的用語を使うならば無明、正しく翻訳するならば(22)、つまり自己の(23)の枠組みに対する挑戦を行ない、その自己の枠組みを完全に(24)した者、これを(25)の勝利者、(25)勝者、タターガタと呼ぶわけです。そしてこの段階に入ると、まさにわたしたちには六つの神秘的な力が宿ります。