アレフ教学システム 問題D
第6章 13話

※(1)〜(25)に適切な言葉を入れてください。

 この十一のカテゴリーに対して、それぞれ対機的な教えを表わすならば、まず第一、有身謬見については、この(1)が、本質的には苦しみであることを認識する修行を行なうことにより、この(1)から離脱することができる。これは(2)によって乗り越えることができる。


 そして、第三番目の(3)、この(3)に対しては、正しい記憶修習、そしてそれと同時にアーナーパーナ・サティ、つまり入出息、(4)を行なうべきである。


 第四番目の戒誓の(5)は、(6)の修行、つまり礼拝と、そして懺悔を繰り返し繰り返し行なうべきである。


 次に、五番目、(7)の興奮である。この(7)の興奮については、愛著する対象の(8)性について、徹底的に瞑想すべきである。
 例えば、相手の心が変わることによる(9)が生じたり、あるいは相手の身体の形状に変化が起きることを観想したり、あるいは愛著している対象が、(10)というものを境に離れ去るという、そのときの(9)を観想することにより、(7)の興奮は止滅する。


 では非形状、(11)に対しては、どうであろうかと。この(11)に対しても同じように、個々の(11)が本質的には無常であり、単純に(12)によって流されているんだということを認識すべきである。それによってこの非形状にとらわれなくなる。


 そして、(13)については、どうであろうかと。この(13)は、未来に対する願望、あるいは過去に対する(14)、あるいは過去に対する後悔、といったようなものが、プラスの面として(13)として現われたり、マイナスの面として沈滞として現われたりすると。
 これに対しては、(15)の修行を行なうべきである。(15)の修行を行ない、そして瞬間瞬間に(16)を尽くすという記憶修習を行なうならば、この(13)、つまり仏教的な漢語的表現を使うならば、掉悔を捨断することができる。


 では次に、慢についてはどうだろうかと。この慢については、僕の修行と呼ばれる修行がある。あるいは(17)の修行と呼ばれる修行がある。
 これは、自分自身は本質的には(18)がないと。そして自分自身は、(17)であると。(17)なるがゆえに、今の環境は(19)にすぎないと。
 このように考え、今の素晴らしい環境に対してとらわれない修行を行なうことによって、慢を捨断することができる。


 では最後の(20)である。この(20)は、俗にいうところの、(21)の洞察、あるいは(22)の実践、これを行なうことにより、この(20)を超越できるのである。
 ところで、わたしが「落ちたらまた、はい上がればいいじゃないか」という話をしているのは、実はこの(20)、別の言い方をするならば、(23)なき状態から、(23)ある状態を何度も何度も(24)すること、そのための実践こそが、最終段階に入った到達真智運命魂の修行なのである。
 ではなぜ、到達真智運命魂の修行が、無明から明、(20)から神秘力へと至る道筋を何度も何度も(24)しなければならないのだろうか。
 それはもともと、到達真智運命魂の修行の本質は、偉大なる(25)、つまり救済者としての土台を培い、完全なる(21)に対する洞察を身に付ける、これが修行の始めであり、すべてだからである。