アレフ教学システム 問題D
第6章 10話

※(1)〜(25)に適切な言葉を入れてください。

 科学的に見ると、仏教の教えというものは、人を(1)的に幸福にする教えということができる。それは、自己の(2)、この自己の(2)を離れることにより、本当の意味では自己に(2)が還元されるんだ、ということの教えでもある。


 この(3)は、「もっともっとその魂と親しくなりたい、もっともっとその魂を知りたい、もっともっとその魂と接したい」というような心の働きが生じている。そして、それを根本として生起した心の働きが、(3)である。ところが、その(3)は、先程も述べたように、その(3)する対象と他とを(4)する、あるいはその(3)する対象を(5)したいと思う心の働きによって、その(3)する対象に対して、逆にいろいろな(6)をかける形になる。
 これはちょうど、舟を岸に着けたいと考えていて、竿で舟を押すようなものである。つまり、力を強く入れれば入れるほど舟は遠のいてしまう。


 そして、四つの無量心の最高の心の状態は、無頓着、(7)の精神だといわれている。真理でいう(7)の精神とは、こういうバックボーンをもとに説かれた教えなのである。つまり、今味わっている苦楽というものは、(8)、あるいは(8)生のわたしたちの言葉、行為、心の働きという三つが重なり合って(9)化しているにすぎないと。
 ということは、今味わっている喜び、あるいは苦しみというものは、今、この瞬間とは(10)なのである。つまり、これはあくまでも(8)の(11)であり、現在の結果ではないのである。


 この(12)においては、必ず嫉妬心というものが心の背景にある。そして先程も述べた、その嫉妬心の背景には、また(13)という心の働きがある。ということは、どんどんどんどん自分の世界を小さくしていくということになる。そうだね。(13)は壁でしょ。
 ということは、この(12)の戒は、人と人とを仲たがいさせ、それと同時に自分の世界を小さくしていき、最終的には(14)になるということになる。
 ところが、人と人とを(15)させる、この言葉の実践をなすならば、心が豊かになり、壁が取り払われ、多くのいろんな人と交わることができ、そして、いろいろなことを学び、魂が(16)するということになる。


 この、なぜ何度も何度も(17)するかというと、これが一定の回数になると、わたしたちの表層意識から(18)意識に入り、そして(18)意識から超(18)意識へと(19)が流れていくからである。そして、この正(17)修習をなして初めて、わたしたちが深い意識へ到達したとき、その正(17)修習をなしたものが(20)となり、いいですか、(20)となり、わたしたちをいろいろな神秘の世界へと案内するわけである。
 ということは、その前に正(17)修習のなされないような禅の瞑想というものは、わたしたちに利益を与えないということになる。あるいは、単に勤行だけにいそしんで、つまり読経だけをしてる場合は、これはそのあとの寂止、正観の正(21)というものがないから、これも正確に観察できないということになる。つまり、詞章、あるいはマントラの修行というものがあって初めて、その次の寂止、正観の(21)に入ることができるわけである。


 この慈愛とは、例えば愛着する対象、あるいは好感を持つ対象に対して、「その好感を持つ対象がもっともっと(22)になってほしい」と、「本当の意味で(22)になってほしい」と思う心の働きである。
 ということは、これも一つしかない。それは、絶対的自由・(22)・歓喜を相手に与えること、(23)を超越した歓喜を相手に与えることなのである。
 確かに、(23)から常に至るときに、相当多くの(24)を対象に与えることになるかもしれない。しかしそれは、ちょうど病を治すとき手術が必要なように、あるいは注射が必要なように、多くのわたしたちの友というものは病んでいる。よって、その病を治すとき、そこに(24)が生じたとしても、それは逆に(25)として、つまりその人の心の成熟の(25)として、見守るべきなのである。