アレフ教学システム 問題D
第6章 9話
※(1)〜(25)に適切な言葉を入れてください。
この「(1)」という言葉は、サンスクリット語では「サマディ」という言葉に置き換えられます。そしてサマディの条件としては、まず(2)停止、そして次に心臓停止と。
ここに至るための修行は、お釈迦様の時代も三カ月から一年、長い人は七年間ぐらい徹底的な(3)修行を行ないました。
この(3)修行によって何をなしたのかというと、自分自身の持っている(4)、つまり自分の考え方とか、あるいは自分のしぐさの背景にあるものとか、あるいは自分の言葉の背景にあるものをしっかりととらえ、それを理解すると。次にそれを理解したのちに、それが生じないようにすると。
つまり、行動の制約・言葉の制約・心の働きの制約を行ない、最終的には行動の(5)・言葉の(5)・心の(5)の三つの状態を形成するようにすると。
つまりこの段階で、この人間の世界での一切の操作、肉体的動きや言葉の働きや心の働きが(5)するわけだから、それをもって「(1)」とするわけです。
そしてポイントとなるのは、切り離された段階で意識がどのようになっているか、つまり(6)した意識状態で、その死後(7)も経験しないで、速やかに死・生のはざまを経験できるのか、あるいはそうではなく経験できないのか、つまり(7)するのかということがポイントとなります。
この経験する状態を正しい(8)といい、経験できない状態を虚空の(8)、あるいは(7)の(8)というふうに表現されます。この(7)の(8)も何度も何度も繰り返しているうちに、その(7)状態の条件に慣れ、そして(7)状態が起きなくなる。そして正しい(8)へと移行されます。
ところで、“(9)”という言葉について、これから考えてみましょう。(9)とは「(10)的な、だれが見ても変わることのないもの」という意味です。
これはお釈迦様が、イシパタナ・ミガダーヤというインドのまあ場所があるわけですが、そこで初めて仏教の教えを広められたときの“サッチャ”――サッチャというのはまあ「(10)的な(9)」という意味ですが――それに由来しています。そして、キリストも同じ言葉、(9)という言葉を使っています。
この(9)とは何かというと、例えばわたしたちが(11)的になると、そして(11)が強ければ強いほど苦しみが大きいんだとか、あるいは何かに愛着していれば、つまり何かを欲すれば欲するほど苦しみは大きいんだとか、例えば心が豊かであればあるほど(12)であるとかいうような、原則的なことを指します。
そしてその原則的なことを背景として、高度な(9)が組み上げられてくるわけです。
それは、まず煩悩というものが存在する。そしてこの煩悩と(13)とはイコールであると。
第二番目に、この煩悩は、その(14)と一緒に存在することによって(15)するんだと。(15)するとは、煩悩が生じるんだと。これと同時に(13)も(15)すると。
なぜ(13)と煩悩が同格であるかというと、煩悩は満たされるということがない、つまり、底無しの器の、器に例えることができるからです。この、煩悩が満たされない状態ゆえに、(13)が生じると。
で、その煩悩は(16)することができると。それは、(14)から離れるか、(14)から超えるか、あるいはその(14)があったとしてもそれに頓着しないかの三つの(17)によって、煩悩は完全に止め、消すことができるんだと。そしてこれと、このときに、(13)も同じように消すことができると。
で、そのための(17)は何かというと、要するに聖なる十段階の道、ま、これ日本では八正道といわれていますが、実際には欠落があると。
では、ヒナヤーナ的方法はあるのかと。
これは、わたしたちを構成している身体、(18)、そして(19)、観念という四つのカテゴリーを、まず先程述べたように止めてしまうと。身・口・意、あの行動・言葉・(19)の働きを止めるのと同じように止めてしまうと。
そして第二の段階で、次に下の世界へ至る条件を止め、(20)に至る条件を止めると。そして(21)すると。
ところで、(22)には四つの段階があります。
それは、法則を聴いたとしても、単純に(23)しかできない段階と。
その法則を、真理の法則を聴き、それを段階的に(24)することのできる魂と。
そして、一回法則を聴くだけで、その法則の内容を完全に(24)してしまうことのできる魂と。
そしてその法則を聴く・聴かないはともかく、グルと出会った瞬間に(25)によってそれを(24)する魂の四段階に分かれます。
これら四段階の魂以外の分類法はなく、またこれ以上の分類法も存在しません。