アレフ教学システム 問題D
第6章 1・2話

※(1)〜(25)に適切な言葉を入れてください。

 今から二千五百年以上前に登場なさった、(1)な救世主サキャ神賢。
 なぜわたしが、二千五百年以上前という曖昧な言葉を使うのかというと、サキャ神賢の誕生、あるいは(2)には、いろいろの説があります。
 従って、ここでわたしが、何年から何年まで、あるいは、何千何百何十何年前という限定的な言葉を使った場合、それにいろいろな反論が加えられることを恐れるがあまり、二千五百年以上前という曖昧な言葉を使っているわけです。
 つまり、わたしにとってサキャ神賢が、二千五百年以上前に(3)したという事実だけで、サキャ神賢の(3)価値は十分なわけなのです。
 わたしにとって、サキャ神賢の生まれた年代より大切なことは、(1)な救世主がどのような(4)をお説きになったのか、そしてどのような形でそれを皆さんにお伝えするのか、ということの方が大変(5)なことであり、価値のあることなのです。


 サキャ神賢は、「(6)相応」、つまり「サッチャ・サンユッタ」の中で、
「わたしはこのほかに多くの(6)を知っているが、その多くの(6)は、皆さんに対して、大して(7)にならないと。つまり皆さんを高い世界へ導くことにならず、そして、(8)へと導くことにならないと。よって、今、皆さんに必要な(6)だけを説くんだよ。」
という一節があります。
 これからもわかるとおり、今この地上に伝わっている(6)と呼ばれる(9)群は、そのほんの(10)にすぎません。
 従って、その(10)の(9)を得たからといって決して(11)に陥らず、まずその(9)の内容をしっかりと記憶し、理解し、そして(12)に役立ててください。


 (13)は、(14)からの脱出、(14)からの(15)を説きます。しかし、一般の宗教はより(16)な人生を説きます。この二つにはどのような違いがあるのでしょうか。
 もともと、仏陀釈迦牟尼、まあオウム真理教ではサキャ神賢と呼んでいますが、サキャ神賢は、王子として生まれ、そして多くの喜びを(17)し、解脱・(18)へと向かいました。
 つまり、(13)を奉じる者、真理を実践する者は、単に(19)が悪く、そのために(14)だけしかない人生、そこから脱出する、というわけではないのです。客観的に見るならば、(16)な状態で存在していたとしても、その(16)の背景には、必ず(14)が含まれている、そしてその(14)から脱却してこそ、真の(16)が存在するのだと、これが、(13)の(20)をなす(21)なのです。
 つまり、一般宗教でいわれる、“(16)になりたい”“(16)になる”といったプロセスは、もうそのようなものは(22)のことであり、つまりそれは基本的な、(23)の段階でクリアできることであり、その(16)を(24)する意識状態を形成すること、これこそが(13)なのです。
 時間があまりありませんので、これについての深い検討は避けますが、それは、仏典をお読みになったり、あるいはわたしの著作集をお読みになれば、よく(25)できると思います。