アレフ教学システム 問題D
第5章 12話

※(1)〜(25)に適切な言葉を入れてください。

 魂の(1)というものは、簡単に分けると四つの段階によって表わすことができる。
 この四つの段階とは、表層意識によって潜在意識を(2)した段階、潜在意識が解放され善悪の区別がなくなり(3)だけになった段階、そしてそれらが浄化され、もともと魂の本質というものは、つまり自分自身の生きているこの状況、生きることというそのものが衆生のためであると考える(4)の状態になった状態、そして心が静まり(5)に没入し寂静の状態になった状態、この四つの段階に必ず魂は(1)のプロセスを求めなければならない。


 そして、この段階が過ぎると、わたしたちはこの世の(6)だけではなく、別の(6)の経験を始める。これが俗にいうところの幽体離脱である。
 この幽体離脱の(6)は、わたしたちの(7)意識、つまり煩悩の世界の経験をわたしたちに伝える役割を生じる。この(7)意識は(8)も悪もない。従って、端から見ると、わがままで自由な活動をしているかのように見える。
 このときに、わたしたちはどのような瞑想修行が適切なのかというと、(9)の修行、そして懺悔の修行、および(10)法の修行である。
 では、なぜこの(8)悪のない(7)意識において、(10)法の修行や懺悔の修行が必要なのだろうか。
 それは認識の段階が一つ深くなっただけで、実際的にはわたしたちがこの人間の世界から神となり、そして最終的に(11)になる道、この道が(8)であり、わたしたちがこの人間世界から煩悩を増大させ、そして地獄で苦しむ、この道が悪であるという定義がはっきりしている以上、認識があろうとなかろうと神、そして(11)への道を歩くべきだからである。


 すると次に、わたしたちの本質はわたしたちに命令を下すようになる。(12)の価値とは何か、そして何のために(12)しているのか、これが第三番目の大我智、つまり(13)の道ということができる。
 この大我智は、――例えば普通の人、つまり凡夫あるいは外道は、欲望を満足させるために働き、あるいは自己を守るために働く。しかし、この大我智へ到達すると、自分の生命そのものがすべての衆生、あるいはある一部分の、しかし、それはかなり多くの人のために(12)するんだという認識が始まる。
 この、もともと認識の背景にあるものは何かというと、それは(14)である。この認識によって、生存そのものが普通の人の生き方と全く形が変わるといったようになる。つまり、いかにしたら自分と縁の深い魂に対して(15)を与えることができるのか、ということが中心になるからである。


 この大我智の最終地点においては何が生じるのかというと、すべてのために自己は存在する、そしてそれによる(16)感である。この(16)感の次に現われるものが、しかしその対象はすべて(17)なんだと。
 つまり、自分が今救済する対象というものは、魂の数というものは、例えば人間だけでも七十億、八十億いると。それだけではなくて、無数の、――ここで無数というのは、あくまでも数えられないという意味において無数の生命体が存在すると。
 それらすべての生命体を救済するということに対して、その成功・失敗を繰り返すうちに、徐々に徐々にその本質である(17)というものによって、それらの現象から(18)傾向へと至ると。そして(19)の状態へ至る。
 つまり、この第四段階では、(19)とそしてすべての魂を救済するという(20)の意識のみが存在するようになる。
 この(20)の意識の存在ののちにはどうなるのかというと、その(19)がより一層研ぎ澄まされ、そして現象を見つめる目というものが鋭くなる。


 では、(21)、一般的にいわれる(21)、つまりヒナヤーナにおける(21)とは何であろうかと。
 これは第二段階の煩悩、これに対する完全に捨断を加え、そしてそののちに生じるはずである大我の意識、つまり多くの人を救済するぞという意識を完全にカットした状態を表わすと。この状態でも(21)的な要素は生じるが、(22)は生じない。
 従って、マハー・ボーディ・(21)と、それから(21)の違いは何であるかといったら、まず第一に(22)があるかないかということになる。
 次に第二段階において、自己の煩悩だけ止めた状態であるから、経験、つまりすべての衆生を済度したという(23)のカルマというものは受けられないことになる。従って、幸福というものも得られないと。ここではすべて冷たい状態で止まっているのである。
 そしてヒナヤーナの(21)においては、ただ単なる煩悩を止める作業しか行なっていないから、経験においても個人の経験で止まっていると。従って、大我智によるいろいろな経験、多くの経験をした魂と比較するならば、(24)の度合いも違うと。
 つまり(21)とマハー・ボーディ・(21)の違いは何かというと、(25)の(24)・幸福・(22)があるかどうかの違いということになる。