アレフ教学システム 問題D
第5章 9話

※(1)〜(25)に適切な言葉を入れてください。

 魂が(1)していくプロセス、これが十二縁起の法である。
 十二縁起のプロセスを簡単に説明すると、まず、真我が三グナに干渉される。
 ここで無智、あるいは(2)という煩悩の最も根本的な働きによって、一部の魂はそこから(1)する。そして、本来自分に備わっているはずの絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜という三つの条件をかなぐり捨て、外的なものに対して、それよりももっと素晴らしいものがあるんじゃないかなといって、(1)が始まる。
 そしてその結果、名色が生起する。この名色とは何かというと、自と他の(3)である。
 そして、この自分と外界、対象に対して、その(4)によって楽しみを求めるようになる。これが仏教的な言葉を使うならば愛である。
 そして、その楽しみを何度も何度も修習するようになる。修習することによって貪りが生じる。そして、執着、つまり取著が生じる。
 この取著が生じることによって、対象に対して、これは我がものであると。これはわたし自体のものである。よって、このわたしの得ようとしている対象を傷つけるものは何人たりとも許さないと。ここで(5)が生起する。
 そして、完全な形での分離が生じ、有、つまり、欲界・色界・無色界のどこかの世界へ転生し、そして生が生じる。


 ここでのポイントは、この(6)であるということを認識したのち、真我が独存位に即帰れればいいんだが、その前の十二のプロセスが弊害となり悪戦苦闘が始まる。
 そしてまず、(6)を取り除くために、今まで落下したプロセスの逆向きの道、つまり求める方向から引っ込める方向へと思索が始まる。そして、ある人は仏教に、ある人は原始ヨーガへと傾倒していく。
 ここでしっかりしたグルに付くことができるならば、しっかりとした(7)が持て、そして(8)が覚醒する。(8)が覚醒することによって、悦、つまり(9)が生じる。…(中略)…
 しかし修行が続き、(8)が覚醒し、その(9)が頂点に達し、体がしびれるような最高の喜悦の状態が生じると、わたしたちは性的な(10)や、あるいは食物による(10)から解放される。そして、この(9)はわたしたちの心に大変なる(10)、しかもそれは(11)のない(10)を提供する。
 普通、魂は(12)を得た時に(10)が生起するが、その(12)がない状態で(10)が生起するということは、もともとそれこそが、本当のわたしたちの求めていた一つの要件であったことに気付くからである。つまり、外的(12)による喜悦より、内的エネルギーが生み出す喜悦こそが、真我の求めていた(10)だから、それによって本当の(10)は生起するわけである。
 そしてそれにより、いろいろな(13)から解放される。なぜならば、(13)は(12)と、それから魂との間によって生じる一つのギャップによって、(13)が生じるわけである。ということは、(12)なくして喜悦、(10)という二つの条件が備わった段階で心身が大変(14)となる。
 そして、魂は(12)に対して一切心が動かないで、そして(15)が充実した状態、楽を経験する。
 この状態に入ると、外的刺激に対して反応しなくなり、(15)の世界の散策が始まる。これがサマディである。
 そして、今までの自分の邪悪見解、あるいは謬見解に気付き、如実智見となる。
 如実智見となるがゆえに、食欲や性欲だけではなく、いろんな要素に対して(16)を離れる。
 そして、(16)を離れることにより独存位の境地、つまり解脱が生じるわけである。
 これが、小乗仏教のすべてである。


 では、この(17)に至るプロセスは、どのようにしたら認識できるのかと。それは、まず、この現象の成り立ちについて、わたしたちは小さい時からいろいろな教えを受けている。しかし、そのような謬見解にとらわれるのではなく、(18)的な教えを繰り返し繰り返し記憶し、それにのっとって考えると。これが必要なのである。
 では、基本的な考えとは何かというと、まず、わたしたちの身・口・意における善業を(19)させ、そして悪業を滅することである。
 では、その根本をなすものは何かというと、すべてを(20)ということである。
 では一体何を(20)んだと。それはすべての魂の(21)、すべての魂の安らぎ、そして、すべての魂の至福というものを(20)ということである。そして十戒にしろ、あるいは三つの(22)にしろ、そこがポイントになっている。


 ここで、六つの極限のメリットを少し話をしたい。六つの極限の第五番目。これは正(23)ということになる。この正(23)の徹底は、わたしたちが布施の徹底から二正勤二正断の徹底に至るまでの実践を行ない、それを実際に(24)の瞑想によって理解するプロセスである。
 (24)の瞑想とは何かというと――ここで言うね――無思考の状態に入り、そしてわたしたちの(25)が一体どのような形成状態にあるのかと。
 要するに、それまでの布施の徹底ができてるかと、あるいは持戒の徹底ができてるかと、あるいは忍辱の徹底ができてるかと、あるいはそれをチェックするための、精進の徹底はできてるかということを見ること、これが第五番目の正(23)の徹底である。