アレフ教学システム 問題D
第5章 3話

※(1)〜(25)に適切な言葉を入れてください。

 つまり、わたしたちの(1)というものは、本当の姿というものは、ね、ヨーガでは真我であるといわれている、ね。それから、仏教では、ね、仏陀の境地や、あるいは、ね、(2)の(1)というものをわたしたちの本当の姿だといっている、ね。
 この状態というのは何かというと、智性、智性というか、そうだな、すべてを(3)に正確に認識し、判断する力だね。そして、(3)にものを映し出す力、これがわたしたちに、ね、生まれながらにしてあるといってるわけだ、ね。
 ところが、いろいろな(4)をわたしたちが入れることによって、ね、つまりそれは(5)を屈折させるけがれとなるわけだね。その行為によって、わたしたちは(6)を(3)に見つめることができない状態になっている、ね。
 そうすると、(3)に見つめることができないということは、どうだ。わたしたちは真実を理解できる条件を備えていると言えるか、言えないか、どうだ。
(一同)言えない……。
(尊師)言えない。では、言い方を換えれば、ね、その得た(4)、つまりデータを屈折させる(4)をすべてわたしたちが(7)し、しね、その(4)が働かなくなったとしたならば、それはどうだ。(3)に見つめることができるようになるんだね。


 そして、すべての(8)が止滅し、ね、完全に働かなくなった状態、その状態を仏陀の心の状態だといってるわけだ。そして、その透明な状態の本質を(9)だといってるわけだ、ね。
 ということはだ、わたしたちが修行をする目的の前提にはね、この(9)に(10)すること、あるいは心の本性に(10)することが狙いであると言える。そうだね。
 そして、そのもう一つの前提には、その心の状態というものはだよ、ね、純粋にすべてをありのままに映し出し、しかも、ね、最高の智性を有していると言える。
 もし、それがなければ、単なる(11)である。単なる無であったとしたならば、わたしたちがそこに(10)する意味がないよね。どうだそれは。
 だから君たちは修行する段階において、まず(12)を持たなければならない。それは何か。
 わたしたちが今持っている(13)というものを、あるいはイメージというものを消滅し切ったならば、本当の純粋なわたしたちが登場すると。それは智性にあふれていると。どうだそれは。


 君たちもそうだろう。例えば、オウムに来て一日、二日、三日とね、一生懸命修行していくうちに、どんどんどんどん(14)は増大していくよね。どうだ。
 「え!」と思うかもしれない。何が「え!」と思うかというと、「あれ、修行していったら(14)は(15)はずだ」と、どうだ。
 しかし実際は、君たちの(14)は増大していくよね、どうだ。というよりもだ、君たちが君たちの(14)に気付くよね、どうだそれは。今まで気付かなかった(14)に気付くんじゃないか、どうだ。
 そして、それは(16)という言葉に置き換えることができるよね、どうだ。そして、(16)ということは、その(14)(17)の第一歩じゃないか、どうだそれは、ね。
 それから、また別の言い方をするならば、その(16)というものは、既に君たちの智性の(18)ということと切っても切れないものじゃないか、どうだ。わかるよね。今まで(19)できなかったことが(19)できるようになったわけだから。そうだね。


(尊師)わかるよね。すべての(20)というものはあなた方のためにやっている。そして、(21)を出して(20)をする人は、それなりの(22)を得ることができる。しかし、(21)を出さなかったならば、(22)は得られると思うか、得られないと思うか、どうだ。
 未来においてわたしたちは、ね、(20)しない者は六道の(23)を経験しなければならない。それは、すべてのものをありのままに映し出すことができないから、間違った環境に飛び込み、そして苦悩する、それはわかるな。どうだ。
 そして今、あなた方はそれを(24)している。肉体と心を(24)している。どうだそれは。これはあなた方に大きな(25)を与えると思うか、与えないと思うか。
(一同)与えます。