アレフ教学システム 問題D
第4章 15話
※(1)〜(25)に適切な言葉を入れてください。
では、神々を認知するための(1)とは何であろうか。
それは、(2)修行者においては奉仕であり、そして戒律の遵守であり、(3)である。在家修行者においては、何が必要であろうか。それは、(4)であり、奉仕であり、持戒であり、あるいは(3)である。
そして、しっかりと(5)に入り、神聖天、超越童子天までの(6)、あるいは空無辺から非認知非非認知に至る非(6)の認識を、しっかり(5)によってなすならば、その人の生き方はおのずと変わってくるはずである。
君たちが(7)の意味合い、(7)の遵守、サマディの意味合い、サマディの完成、智慧の意味合い、智慧の達成、そして(8)へと到達することができたならば、こう考えるはずである。
「わたしはすべてを知った。わたしは(9)に智見した。よってわたしは、この世の中の仕組みが(10)を根本としているものであり、それを超越するためには(11)の実践しかなく、そして、この世の(12)すべてが全くわたしに(13)をもたらさないものである」ということを認識できるはずである。
よって君たちは、しっかり戒を守りなさい。サマディを守りなさい。そして、智慧へと到達し、しっかりと(8)の境地を認識しなさい。これが、わたしたちが与える、(14)に対する訓戒である。
この前者と後者は同じ現象を経験しているにかかわらず、前者は憂いの集積、(15)において憂いや、あるいは悲しみや、あるいは嫉妬の集積を当然味わうはずである。ところが後者の修行者は、五蘊において、まず形状-容姿が強くなり、そして感覚が強くなり、意志が強くなり、そして識別において(16)が集積されるはずである。
ということは、ベンツに乗っていようがあるいは歩いていようが、その人が(15)においてどのように現象をとらえるかによって、すべての(17)は違うはずである。
そして、わたしたちは(18)というものを境に、すべての環境から離れなければならない。
例えば愛する者がいたとしても、あるいは憎む相手がいたとしても、あるいは愛するものがあったとしても、あるいは嫌悪する対象があったとしても、すべてから離れなきゃならない。そして、(19)から離れることは、同時に苦しみ、嫌な蘊から離れることになる。
そして、ここで言う離れるとは、(20)的な現象を指しているのではない。心の現象を指しているのである。
よって、日ごろ、(21)に徹しなさい。心を(21)に集中しなさい。そして、(22)しないことの訓練を始めなさい。
では、なぜ(22)しないことの方が素晴らしいんだろう。
先程述べたとおり、五蘊の形成は、当然(22)しないことの方が素晴らしい。
それだけではなくて、例えば車に執着している者が(18)んだとしよう。そうすると、次は車のある所へ(23)するだろう。例えば、嫌悪のあるものを残しながら(18)んだとしよう。その人は嫌悪の対象を追っかけて(23)し、(24)へ落ちるだろう。あるいは、(19)している者がいたとして、(19)の対象が正しくなければ、当然正しくない世界へ(23)するだろう。
このように(23)を誤るのである。…(中略)…
ところが、もし輪廻(23)に失敗するならば、何千カルパ、あるいは何億カルパ、短い場合でも、例えばいったん動物界へ落ちたとしても、その動物界からはい上がることはできない。よって、何万年、何十万年と、苦しまなければならない。
よって、(21)に徹しなさい。(25)に徹しなさい。そして不(22)の素晴らしさを認知しなさい。いいね。