アレフ教学システム 問題D
第4章 9話

※(1)〜(25)に適切な言葉を入れてください。

 今日はね、『阿含経典』から一つの引用、そしてそれに対する、まあ解釈というのをね、みんなにやろうと考えています。これは特にね、まあ(1)者に必要な考え方だから、よく理解するようにしなさい。
 まず、わたしたちの、ね、欲望を(2)させてくれる、四つの、ね、ものがあると。
 それは何かというと、一つは、ね、(3)における喜びであると。これは例えば物を食べたり飲んだりする喜びだと。これはいいね。
 それからもう一つは(4)における喜び。これは異性とのセックス、ね、あるいは、母親が子供を愛撫するね、こういうものをすべてまあ、(4)による喜びであると。これもOKだね。
 そして、意思を達成するとき、欲望を(2)させるときの喜び。これもOKだね。
 そしてもう一つは、(5)としての喜び。意識としての喜び。これはどうだ?
 例えばこういう状況で楽しみたい、とかいうときの状況。こういうふうになったならば、これは恋愛であるとか。こういうふうになったならば、これは恋人であるとか。すべて(5)だね。これはどうだ、どうだ?


 (6)というものは、例えば自己が欲求したものを食べるとき、喜びを与えてくれるよね。それはどうだ?
 しかしそのように、例えば自分たちが食べらんないとき、ね、それを得らんないとき、そしてそれを食べない限り生きていけないとき、それはどうしても食べるだろう。しかし、そのときどうだ、(7)が生じないか。どうだ。
 ね、今君たちの返事を見てると、おなか空いたとき食べたいとき食べると喜びが生じるよねと、「はい」と、たくさん返事すると。で、(7)が生じるでしょと、沈黙と。これは君たちが(8)ね、ものの見方をしている証拠なんだね。
 で、どうだ君たちは。これを(6)と知り、これを、ね、色を(9)ことと知るならば、それから、それは(10)的には自己を苦しめるもんなんだと、厭い(11)ことができるよね。どうだこれは。


 もし、わたしたちが色における、ね、(12)というものを切ったならば、色というのはわかるね、(13)における(12)というものを切ったならば、この苦しみが生じると思うか。どうだ。
 生じないということは、わたしたちは(14)を超えたということになるな。それを理解することのできる(15)は「真の聖なる(15)」だと言うことができる、ね。


 接触の(16)は、例えばセックスの(16)は、例えば、ね、抱擁される(16)は、ね、わかるかなみんな。この抱擁される(16)、あるいはセックスの(16)、これと、それからもう一つ、外的接触によって苦しむということは、どうだ、表裏一体か。
 そして、聖なる弟子は、ね、(17)の裏には苦があるんだということを理解できるわけだ。
 じゃあだ、現代に当てはめてみて、この接触の苦しみには何があると思うか。
 まず、淋病、梅毒、エイズと。どうだこれは。あるいは、毛じらみ、どうだ。すべて接触によって生じるよね。どうだ?
 しかし、ね、凡夫は何を見つめるか? そして何を見つめないか。うん? そうだ、(18)だけを見つめ、苦しみを見つめない。


 しかし、先程も言ったとおり、例えば牛の例え、あるいは、一種のね、子供の例えにもあるように、わたしたちが(19)に支配されている限り、どうだ、――喜びも強い、しかし、(20)も強い。これを理解しなければならない。
 これはね、(21)を考えなさいと。低い(21)がね、まあ、ここに平面があったと考えてだよ、ね。
 この平面の、まあ下の方だね、沈んでるといったらいいのかな、その中心から見てね、低い(21)の中心からの距離が、ね、長ければ長いほど、(22)(21)は? どうだ。
 当然(22)だろ、長いだろ、中心から見て、どうだこれは。それが(21)の特徴だよね。どうだ。
 そしてこの低い部分、これはわたしたちの(20)を表わしていると。(22)部分、これはわたしたちの喜びを表わしてると。
 よって、ね、偉大なる聖者釈迦牟尼は「わたしたちの心を(23)にしなさい」と、「心を清澄にしなさい」と言ってらっしゃるわけだ。いいですか、ね。
 たくさん話しても入らんだろうから、あしたは意思の喜びね、それから意識の喜びについて話します。
 今日わたしが話したことをよく繰り返し、ね、頭の中に入れてみなさい。そして、この瞑想というのは、君たちが望んでいる(24)、あるいはジュニアーナ・ヨーガの瞑想の(25)であり、応用であると。いいね。