アレフ教学システム 問題D
第2章 10話

※(1)〜(25)に適切な言葉を入れてください。

 まず第一のパターン、これはダイレクトに期待する(1)が返ってくることはあり得ないと。それはちょうど、けがれた(2)に自分自身を映したときの状態に例えることができます。
 つまり、まあ光によって、(2)に(3)に自分自身を映し出すわけですが、その対象の(2)がけがれていると、そこにひずみが現われたり、あるいは実際に見えなくなったりすると。これは(4)をしたとしても、それがダイレクトに(1)として返ってこず、自分自身に(5)を与えない場合です。
 しかし、もしここで在家修行者が(6)の瞑想を絶えずなしているならば、その在家修行者の(6)の瞑想の手助けを、この(4)はなすことになります。
 第二番目は(7)に対する(4)です。これは、(8)はダイレクトに返ってきます。なぜならば(7)や独覚は、その広大な(2)の(8)分は(9)であり、(3)に対象を認識する、つまり、(3)に(1)を跳ね返す力があるからです。
 この場合、その(7)や、あるいは独覚に対して(4)をなした魂は、その(1)の(8)は(3)に反射された形、あるいは増大された形といった形で、その(1)を経験します。そして、残りは混沌とした状態での(1)の経験を受けるわけです。これは一番目と同じと。
 第三のパターンは、(10)へ至る魂のもう終わりに近づいている場合、あるいは実際に(10)の場合と。これは(2)が完全に(9)ですから、自分のなした(4)が(3)にはっきりとした形で、現世における(1)として返ってきます。


 この、一、二、三はいずれも、わたしたちが宗教的言葉・仏教の教えの中で、(11)、そして徳行といっているパートに属する実践です。つまり(11)を皆さんがなすとき、もし慈愛の瞑想を修習する実践の儀式的意味合いによってその(11)をなすかなさないかは、皆さんに対する果報の返りは全く違うんだということを認識すべきなのです。
 もちろん第二の阿羅漢や、あるいは世尊、覚者に対する供養は、あまり(12)が加わってなくても、その現実的果報というものは、はっきりとした形で現われることでしょう。


 救済には二つのタイプの救済があります。
 その第一のタイプは、一般にいわれる(13)的救済です。第二のタイプは、すべての人々のカルマを(14)化すると。つまり、わたしやあるいは弟子たちのステージが実際に上がり、そして透明な部分が多くなり、それによって果報の現出が早くなると。前者は凡夫でも行なうことのできる救済です。後者は(15)によってのみ行なうことができる救済です。
 この後者の救済計画を実際に推し進めるためには、わたしやあるいは(16)した弟子、あるいは在家で成就した弟子、あるいは成就しようとしてる弟子は極限の修行をし、そしてクリアな(14)をしっかりとこの世に現わすことのできるような心のクリアな部分の増大、これを計るために邁進すべきなのです。


 それを可能とするには、在家修行者は在家戒、在家修行者の(17)を守り、そして実験を、実践をひたすら行ない、そして自己の(18)を上げると。出家修行者は出家修行者の(17)を守り、教えをしっかり記憶し、捨断し、そして(19)し、心のクリアさを広大にすると。
 この在家修行者と、それから出家修行者が同時に存在し、それでその質が(20)されればされるほど、わたしたちの計画している十三段階の救済計画は確実なものになるはずです。
 つまり、救済が(21)するか否かは、ここに集まっている信徒の皆さんの一つ一つの(22)、一人一人の(22)に懸かっているということが言えると思います。また、この在家の皆さんの修行が進むかどうかは、わたしあるいは出家した弟子たちが、いかにこれから修行するかに懸かっているのではないかと思います。


 これは実際オウムの中でもテストが行なわれ、そのテストの結果は、(23)を取らせないでワークをしている場合、惨憺たる結果であったというのが出ています。しかし、この(23)を取らせないでワークを行なう訓練が達成できてこそ、初めて人を超えた、そして(24)と言えるような存在になるのではないでしょうか。
 従って、サマナの課題としては、休息をできるだけ取らないで、しかも精神(25)が続けられると。信徒の課題としては、特に瞬間的(25)力を持ってる人は、その持ってる(25)力をいかに拡大し、二十四時間、あるいは日々、休息の少ない状態でその(25)が続けられるということを、拡大し、その状態を獲得すべきです。