アレフ教学システム 問題D
第2章 9話

※(1)〜(25)に適切な言葉を入れてください。

 なぜ、(1)の修行が仏典に取り入れられているのかというと、今から二千五百年前の時代ですら、普通の生活を行なうことは徳の(2)につながると、サキャ神賢はお考えになったわけです。では一体どういうところに徳を使うのかと。
 例えば、それは仏典の(3)の中にもあるとおり、高いベッドで休む、あるいはベッドのカバーが綺麗なベッドで休む。あるいは食事を二食取る、あるいは三食取るといったような小さな徳の(2)が、結局、一生懸命積んでいる徳の(2)につながるんだと。


 そして、例えば『(4)品』などにもあるとおり、まずその(4)の第一の果報は(5)界の(6)であると。そして、第二の果報は四大天王の(6)であると。なぜ、ここで憤怒天界が出てこないかというと、先程も述べたとおり、憤怒天界は嫉妬と妬み、あるいは策略といった、(7)の実践の蓄積とはちょっと違う趣の天界だから、当然出てきません。
 そして、この(5)世界から第一天、第二天、第三天とどんどん上がっていくわけですが、この形成過程において、つまり、皆さんが例えば(8)を積み、そしてできるだけ(9)な生活を行なうとして、それを行なっていると、まず皆さんは霞のかかったような状態を経験することになります。
 この霞のかかったような状態というのは、皆さんの(8)が、皆さんの(10)を覆い出したような状態というふうに言い換えることができます。このとき、自分の(11)の低下を感じます。しかし実際は、(11)は低下していません。そして徐々にいろいろな(12)を経験するようになり、そして第一天界、第二天界、第三天界と経験するわけです。


 では一体、わたしたちはどのような功徳を積むことができるのでしょうか。それは、オウム真理教の教えの中にある、まず三つの功徳、つまり(13)、そして真理を世の中に広めるという真理施、そして安らぎを与えるという(14)、この三つがベースです。
 そしてそれだけではなく、わたしたちの身の動き、あるいは言葉の働き一つにしても、まず、「殺生の戒に触れてないかな」、あるいは「偸盗の戒に触れてないかな」、あるいは「邪淫の戒に触れてないかな」、あるいは「妄語の戒に触れてないかな」、あるいは「飲酒の戒に触れてないかな」。つまり、(15)に触れているかどうかを心してかかると。
 そして、次に心においては「(16)のこもった心の状態で生活してるかな」。あるいは「(16)のこもった心の状態で会話をしてるかな」。あるいは、「哀れみのこもった心の状態で生活してるかな」。あるいは、「哀れみのこもった心の状態で言葉を交わしてるのかな」と。
 このような、一つ一つの行動や、あるいは言葉や、あるいは心の働きに注意して生きること。これが(17)、継続の意味合いです。そして、これはちょうどわたしたちが箸を使うとき、それを無意識に使うのと同じように、少しずつ少しずつその行為が(18)されます。


 では、この、例えば(19)をしないというのは、どういう天界と関係があるのでしょうか。それは皆さんのよく知っている第一天界、第一天界の(20)は、生き物を傷付けない魂が行く天界で有名です。
 では、例えば人に物を施す、人の物を盗まないといった心の持ち主は、どの天界と結び付くのでしょうか。これは、多くの布施をなしたものが行く(21)の世界――つまり竜王の世界、空居天ですね――の世界、この世界へと転生することになります。
 では、もし(22)でありながら、自分の妻だけを愛し、他の戒律を完璧に守ったならば、どの世界へ行くのだろうかと。これは、(23)の世界へと至ることとなるわけです。
 では、不妄語の実践、決して(24)をつかない実践をしたらどうなるのかなと。これは第一天界、第二天界だけではなく、この地上にいる神、例えば人の物事を、人が何かを頼んだとき、それをかなえてあげることのできる神としての力、大変強い、大変力のある(25)を有する天人として転生することになります。
 では、酒を飲まなかった場合はどうなのかなと。まあ、これは、酒を飲まなかっただけでは天界へは至りません。しかし、他の戒律と合わさったとき、その天界の高さは第四天界へと導かれることになります。