アレフ教学システム 問題C
第7章 16話

※(1)〜(15)には記号を入れ、(a)〜(j)には適切な言葉を入れてください。

 (a)が弟子に対して接する場合、三つの段階がある。この三つの段階とは、(a)と弟子の(b)の深さを表わしている。
 第一番目は(1)、あるいは多聞の段階である。この段階で(a)は弟子に対して、多くの法則を説き明かす。しかし、これはあくまでも学、あるいは(2)の段階であって、その本当の意味での悟りというものは、弟子には当然訪れない。
 第二番目の段階、これは(3)に触る段階である。この(3)に触る段階とは、要するに称賛し、そして、弟子の(c)を見ないようにしながら修行を進めると。
 なぜならば、もし、(a)の目から弟子の状態を見るならば、それは、九九・九九パーセント以上の確率で(c)にしか見えないからである。従って、〇・〇〇一パーセント以下の称賛に値する内容を称賛すると。これが第二段階の(3)に触る段階である。
 そして、第三段階の、第三段階目、これは(d)といわれてる段階である。
 これはちょうど、ティローパがナーローパになしたような段階、つまり相手のステージが(4)されていて、学・記憶、これが完全に(4)され、そして、自分自身の(5)を完全に相手が認識してる状態、それでいて、三宝に対する、(a)に対する(e)が(4)してる段階。――この段階では、ライオンの親が子に対する段階といわれる段階がある。

1、 @正学 A正見解 B独覚 C多学
2、 @修習 A記憶 B奉仕 C布施
3、 @腫れ物 A欠点 B長所 C弟子
4、 @称賛 A確定 B批判 C闘争
5、 @けがれ Aデータ Bとらわれ Cカルマ


 じゃ、なぜ(6)をする必要があるんだと。
 それは、絶えず「これが自分である」という見解から(7)ないことであると。「これが(f)である」と(7)た瞬間に、それは既に(8)を生み出すことになる。
 では、なぜだと。「これは(f)だ」という実体がこの世の中に存在すると思うか、君たちはどうだ。しかし、「これが(f)である」、「(f)の感情はこうなのよ」、「(f)の意識はこうなのよ」と思いたがる。どうだそれは。そしてそれに(7)た瞬間、そこから記憶修習がスタートする、どうだ。
 だから、第一番目になさなきゃならないこと、それは「これは(f)である、これが(f)の見解である」という、この点から解放されなきゃなんない。そのためには絶えず(6)の心を持ち続けなきゃならないと。では何に対して(6)の心を持ち続けるんだと。それは(g)であると。そして、(g)の具現化した形であるグルに対して、絶えず(6)の念を持ち続けなきゃなんないと。

6、 @帰依 A懺悔 B奉仕 C忍辱
7、 @認識し A執着し Bとらわれ C揺れ
8、 @苦しみ A誤解 B我見 C謬見解


 では、(9)はどのようにしたら達成できるのかと。これはまさに、(10)であると。
 では(10)には何があるんだと。これは多くのテクニックがオウムにはあるよね。例えば帰依マントラを唱える、例えば立位礼拝を行なう、例えば(11)如意足を唱える等のだ。

9、 @不放逸 A放逸 B決意 C記憶修習
10、 @記憶修習 A記憶 B思念 C観想
11、 @心 A決意 B観慧 C思念


 じゃあ、この正(h)と正思惟の違いは何だと。つまりおかしいじゃないかと。この、正しく学んだ段階で、既に正(h)じゃないのかと。そうじゃないよね。
 正(h)というのは、(12)によって学んだもの、ねえ、これを土台として、グルの法則をもう一度聴くと。そして、それによって正しい(h)を身に付けると。
 じゃあ、正思惟とは何かと。その正しい(h)を身に付けた状態で、自分自身の煩悩について、苦しみについて、しっかりと(13)すると。これは正思惟だよね。

12、 @正学 A修行 B経典 C法則
13、 @理解 A捨断 B思索 C修習


 このようにしてあなた方の行為を、言葉を、(i)を神々に変えたのち、一切の恐怖がなくなったのち、いよいよ四つの(i)の(14)する場所に対して、記憶修習を施すと。
 それは、我が身体である。これは(j)がないと。
 それは我が感覚であると。あるいは、感覚によって生起する(i)の働きであると。これも(j)がないと。
 (i)と呼ばれているものである、これも(j)がないと。
 あるいは、その(i)を形成するいろいろな社会的通念や観念、いろいろな(15)であると。これも(j)がないと。この四つの(j)のない状況を、つぶさに記憶修習すると。

14、 @依拠 A現象化 B記憶修習 C専住
15、 @制約 A法則 B束縛 C規範