アレフ教学システム 問題C
第6章 13話

※(1)〜(15)には記号を入れ、(a)〜(j)には適切な言葉を入れてください。

 この十一のカテゴリーに対して、それぞれ対機的な教えを表わすならば、まず第一、(1)については、この(a)が、本質的には苦しみであることを認識する修行を行なうことにより、この(a)から離脱することができる。これは(2)によって乗り越えることができる。

1、 @邪悪心 A形状愛著 B疑念 C有身謬見
2、 @懺悔 A苦行 B布施 C忍辱


 そして、第三番目の(3)、この(3)に対しては、正しい(4)、そしてそれと同時にアーナーパーナ・サティ、つまり入出息、(b)を行なうべきである。

3、 @興奮 A邪悪心 B有身謬見 C疑念
4、 @見解 A記憶修習 B洞察 C教学


 第四番目の戒誓のとらわれは、(c)の修行、つまり(5)と、そして(6)を繰り返し繰り返し行なうべきである。
 まあこの極厳修行に入っている弟子たちの中でも、今実際、食べ物に対して引っかかってる者たちがいるが、これは(6)が足りないがゆえに、例えば物を盗み食いしたりするのである。
 これについてはしっかりと、(6)の瞑想を行なうことによって、それを乗り越えることができる。あるいは(c)の修行を行なうことによって、必ず乗り越えることができる。

5、 @奉仕 A供養 B礼拝 C懺悔
6、 @奉仕 A供養 B礼拝 C懺悔


 次に、五番目、(7)である。この(7)については、愛著する対象の(d)性について、徹底的に瞑想すべきである。
 例えば、相手の心が変わることによる(8)が生じたり、あるいは相手の身体の形状に変化が起きることを観想したり、あるいは愛著している対象が、(e)というものを境に離れ去るという、そのときの(8)を観想することにより、(7)は止滅する。

7、 @非神秘力 A邪悪心 B愛欲の興奮 C非形状愛著
8、 @至福 A苦しみ B憎しみ C恐怖


 では次に、(f)についてはどうだろうかと。この(f)については、(9)の修行と呼ばれる修行がある。あるいは(g)の修行と呼ばれる修行がある。
 これは、自分自身は本質的には(10)がないと。そして自分自身は、(g)であると。(g)なるがゆえに、今の環境は(11)にすぎないと。
 このように考え、今の素晴らしい環境に対してとらわれない修行を行なうことによって、(f)を捨断することができる。

9、 @無頓着 A僕 B聖称賛 C供養
10、 @自と他の区別 Aエゴ B真我 C実体
11、 @幻影 A瞬間 B仮の宿 C一時的


 では最後の非(h)である。この非(h)は、俗にいうところの、(i)の洞察、あるいは(12)の実践、これを行なうことにより、この非(h)を超越できるのである。
 ところで、わたしが「落ちたらまた、はい上がればいいじゃないか」という話をしているのは、実はこの非(h)、別の言い方をするならば、(j)なき状態から、(j)ある状態を何度も何度も(13)すること、そのための実践こそが、最終段階に入った(14)の修行なのである。
 ではなぜ、(14)の修行が、無明から明、非(h)から(h)へと至る道筋を何度も何度も(13)しなければならないのだろうか。
 それはもともと、(14)の修行の本質は、偉大なる(15)、つまり救済者としての土台を培い、完全なる(i)に対する洞察を身に付ける、これが修行の始めであり、すべてだからである。

12、 @布施 A真理 B智慧 C慈愛
13、 @執着 A懇願 B礼拝 C経験
14、 @到達真智運命魂 A成就者 Bサマナ C信徒
15、 @忠誠心 A菩提心 B求道心 C信仰心